体罰は必要であるという人が70%の日本。

体罰はしつけではない。
それは暴力である。

なぜ暴力がいけないのか。

1  相手のためと言うのはあとづけの口実。自分の感情を爆発させているだけ。感情のはけ口である。

2  暴力以外の解決方法を選択しなくなる。暴力によるコントロールは即効性がある。

3  暴力は必ずエスカレートする。

4  痛みと恐怖感で相手を支配する。健康な信頼関係ではない。

5 暴力を受けたものだけでなく、見たものもダメージを受ける。

6  事故が起こる。傷ついた心は回復が困難。失われたいのちは取り返しがつかない。


体罰に代わるしつけの方法とは、コミュニケーションである。

コメント

シゲ
2012年3月2日9:05

虐待に関してはアダルトチルドレンと直接関係があるので、けっこう調べました。
ただ、ものすごく重要な問題は、「なぜいけないか」を考えても何の解決策にもならないという点。必要なことは「どうすればうまくいくのか?」を考える事です。
この部分のマインドセットを変えないとすべてが悪い方向に行ってしまいます。
こんな簡単な事がわかるまでに、私はいったい何年を費やしたことか。

それと注意しなければいけないのは体罰以前の「無視」も、ものすごく重要な虐待行為だ、という事。ここを意識しないと虐待の本質が見えなくなります。


体罰に代わるしつけの方法がコミュニケーションであるのはその通りなのですが、そのコミュニケーションができない、わからないという人がいるからこそ、無視(ネグレクト)や、(言葉に出来ずに)暴力に走る親が出てくるわけです。

自分の気持ちの整理がつかない→子供にどう言えば良いかわからない→つい無視や暴力に走ってしまう。

というのが、この問題の本質です。

たとえば、統合失調気味の人間だと、自分の気持ちを自分で整理するということ自体が苦手ですし、しかも統合失調で発症する人は100人に一人。本質的に自分の気持ちを整理するのが苦手な人というのは数十人に一人はいてるのです。

また、子育ては24時間臨戦体勢なので、「自分の気持ちを整理する」という時間そのものが取れなくなりがちです。まともな人でも「自分がどうしたいのか」とか「どういう生き方をしようとしてるのか」というような、親の側の理想の自分をイメージする余裕がなくなります。

そんなこんなを考えると、この問題に効果があるのは、おそらく「日記」です。合間合間に自分がやった事を記録して、「自分は最低限この程度の事はやっている」という自尊心を親の側に持ってもらって、まず「私はしっかりしている」という自覚を持ってもらう。「親のための日記」「自分のための日記」を書くのが効果的だろうと考えられます。

こうして親の自尊心を育てた上で日記に「これからどうなったら良いなぁと思うか」などを付け加えて書いてもらう。「希望」を自ら作ってもらうわけです。一度書いてしまえば、1~2秒で読み返せるわけですから、それを合間合間に読み返すだけで、少なくともこれからどうなって行きたいのか? という方向性は忘れずにいられるので、少なくとも無視や体罰には走らなくなるはずです。

「体罰は必要である。」などという府抜けた事を言う人は、こういう当たり前の事ができていない、あるいはやったこともないというだけだと思います。やったことがない、知識がない、経験がない。そういう人に発言の権利などありませんので、無視して良いです。

あと、ものすごーーーーーく効果が高いのは瞑想です。ですが、これは最低でも15分くらいはやらないといけないので、子育て中にやるのはけっこうむずかしいでしょうねぇ。でもまぁ、子供の睡眠パターンとかが分かれば、やってやれなくもないかも。

日記と瞑想。

これがかなり効果高いと思います。
はい。

シゲ
2012年3月2日9:47

追加で書いておきます。

日記をつけるとか、瞑想をする、自分の理想の生き方を考える、というような事は、子供を持つ前に、「ひとりの人間として果たすべき責任」です。

これは子供を作る前に、一個の人間としてやっておくべきことであって、それが出来ずに結婚したり子供を作ったりしてることの方が問題なんです。
で、そういう「一個の人間として果たすべき責任」を果たしていない人が、

●自分の気持ちの整理がつかない→子供にどう言えばいいかわからない→無視・体罰に走る。

という事になるわけです。

だから、「体罰は必要だ」という人で毎日の日記もつけてないような人なら発言の権利すらありません。
親以前に人間としてダメでしょと切って捨てて良いです。

というは、そういう風に線引きしないと、この問題はすぐに混ぜっ返されるからです。体罰は子供との接触だとかなんとか。自分の事が整理できてない人に限って、そういう混ぜっ返しをする。絶対する。何があってもやりよる。本当にうっとおしい。

「うるさいわ!ボケ!だぁーっとれ!無知のアホのくせしやがって!」

と、本当は言いたい。でも、そういうわかってない人ほど、わけのわからん事を言います。だから、そういうアホ言動を封殺しないと話が進まないのです。本当にこれは迷惑です。迷惑以外の何者でもない。しかも、そういうわかってない人が社会の70%を占めるわけです。あー、やれやれです。何しょうもない事言うとんねん、お前がアホなだけやんけ。お前がわかってないだけやんけ。で、こっちが言うてる事がわからんのは、お前に知識がなくてわからんわけで、お前に原因があるんやんけ。反省せぇや、ボケ。と思う。本当に無知なクセしてわかったような事を言う人間というのは社会の迷惑、存在自体が悪というものだと思う。暴力以上に、そういう人間の存在自体が困る。生きてる価値がないから、さっさっと死ねとすら思う。でも当人はそういう自分の迷惑さ加減がわかってないんですよ。

だから、「あなたはこの2週間の自分の食べた献立が言えますか?」と質問して、「それも言えないのに、子供のしつけで偉そうな事が言えますか?」くらい言わないといけないと思う。

で、逆にそこまでキチンと記録をつけている人がいて、その人が「体罰は必要」と言うなら話をしっかり聞きたいとも思う。そこまでやっていて「体罰は必要」と言うなら聞いても意味はあるでしょう。でも、そうではなくて「自分のしつけ」を棚に上げて、子供にだけ「しつけ」を押しつけてる人には発言権を与えてはいけないと思う。そういう人間は黙っとれと思う。

だから「この2週間の自分が食べた食事を言えない人にしつけは言えない」くらいの事は言って良いと思う。「自分をしつけられない人に、子供をしつけられるはずがないじゃないですか。少なくとも食事記録をつけたら、そんなことはノートを見れば一発で答えられるんですよ。」と言って、だまらせないとアカン。本当に「体罰必要論者」は邪魔。本当に邪魔。社会の迷惑。存在が悪。考え方が悪魔。

無視・暴力は、ほとんどの場合「うまく言えなくて代わりにやっちゃった行為」なんです。だから日記で整理するのが効果がある。ものすごく単純な話ですよ。人間にはペンとノートがあるんです。使えばよろしい。そういうことです。

そういう基本的な事もやってない親に体罰を語る資格は一切ないと僕は思います。
(ちなみに、僕は2週間の食事記録はつけてません。日記はつけてるけど。:笑)

きゃおる
2012年3月2日19:52

暴力をふるう人は、怒りの仮面の下にある傷ついた自分自身を肯定しなおすために、
自分と向きあう手段を持ち、ふりかえりつつ生きることが解決につながりますね。

シゲ
2012年3月23日13:39

>自分自身を肯定しなおすために、
>自分と向きあう

これ、すごく重要。
というか、多分、これだけが「大人の責任」だと思います。

自分をゆったりと肯定することだけが「大人の責任」で、
そこができてない人は、まだ子供。

そういうことでしょう。

で、日記も瞑想も、ゆーーーーっくりとやる「自己肯定」だと思います。

だから、日記と瞑想なのです。

シゲ
2012年3月23日13:47

「自己肯定をしていない」という事が、そのまま暴力に直結するのだ、
ということが、暴力的な人ほどわかっておりません。

「自分が大事」という感覚なくして、身の回りの家族や親族を「大事」に扱うことなど、
絶対にできないわけです。

自分を大事にしてないから、自分以外の人間を大事にできないわけですね。

で、その「自分を大事にする」ということが、どういうことなのか、
全然わからない、という種類の人が、世の中にはとても多いわけです。

で、日記とか瞑想とかは、その「自分を大切にする」ということの、もっとも敷居の低い「方法」として、とても良い、ということなんですね。

もっとも敷居が低い。

ここが大切。

日記も瞑想も、「たまにやってみる」程度で良いわけです。

日記なんて、それこそ、3日に一度とか、月に数回でもいい。(ただし、デジタルはダメ。紙に手書き。自分の手で触れる、という部分があるかないかは実感にかなりの差をつけてしまいますので。)

書けばたまる。自然と「自分」を実感できる。
瞑想も一緒。

まず、みんなが「自分を大切にする」ということの基本を、キチンと味わってないとアカンよなぁと思います。

きゃおる
2012年3月29日19:20

>で、その「自分を大事にする」ということが、どういうことなのか、
>全然わからない、という種類の人が、世の中にはとても多いわけです。

考えたこともない、というひとは多いですが
わかりやすく「自己肯定感」という造語を伝える言葉も不十分だと思っています。
だから、とっても、わかりにくい。

自己肯定というのは
わたしの感覚では
「こんなわたしだけど、大好きって思うこと。」です。

シゲ
2012年4月11日11:40

>「こんなわたしだけど、大好きって思うこと。」です。

まぁ、そういう事なんやろねぇ。

ただ「こんな」という言葉は、まだ余分かも。
「私は私が大好きだ。」だけで良いのだと思います。本当は。
まぁ、なかなかそこが難しいんやけど。

僕個人の意見で言うと、「私は私が大好きだ」と思う事は、「ひとりの人間として果たすべき最低限の責任」だと思うんですよ。

自分の面倒は自分で見ることが、生きていく上での最低限の責任だと思うんですよ。

で、自分の面倒を自分で見るには「自分を好きになる」ことが絶対的に必要な事なわけです。
だから、自分を好きになっていない人は、人間として、もっとも重要なルール違反を犯しているんやと思うんですよ。まぁ、僕の勝手な意見ではありますけど。

だから、「自分を好き」と思っていない事自体が問題。いちばん迷惑。社会の迷惑だと思う。
ちょっと極端な言い方かも知らんけど。

そういう意味で、自分を好きになっていない人を見ると、ものすごく腹が立ちます。「お前、最低限の責任を果たしてないやないか!」って。

でもまぁ、自分を好きになってない人、多いからねぇ。困ったことに。

で、その解決策には日記と瞑想がいいと僕は思います。

シゲ
2012年4月11日11:57

●なぜ「瞑想」は良いのか。

この話をひとつ書いておきたい。
それは瞑想が「何もしない方法」だからです。

たとえば、「こんな私でも、私は私が好きだ。」というのは、「こんな」という気持ちがある限り、基本的には矛盾しています。「こんな私」と「好きな私」というのは「嫌な私」と「好きな私」ですから。

で、一般的に「こんな私=嫌な私」というのは「失敗ばかりしてダメな私」という自信喪失の状態である、というのがほとんどです。

しかし、物事の上達には失敗は必然でして、失敗したら「なぜうまく行かなかったのか?」の理由が明確になって、上達に一歩近づいていることなわけですから、本当は喜ばないといけないわけです。「この方法ではダメだから、他の方法を探そう。」という道筋が見えたということです。

だから本当は「失敗するからダメ」というのも本質的に矛盾してるわけです。
だから、何かやるなら、自分で納得できるところまでやって「幸福感」を感じられるところまでやらないと意味がないわけです。

ここまでが一般論ですね。

で、ここにすら至れないのが「私は三日坊主だからダメなのよ。」というテーマです。三日坊主でダメだわ、という場合の「ダメ」というのは「飽き性で続けられない」という話ですね。
続けるのが面倒で、何もやる気がしない。だからダメなのよ、わたしは。

失敗を「成功への過程」と正しく捉えきれないと、次はこの「三日坊主問題」に話は移ります。

三日坊主がダメというのなら、それこそ瞑想をすれば良い訳です。瞑想って、実際、「何もしない練習」なわけですから。

考える事自体を放棄する練習ですよ?

どうです、この「何もしない度」。最上でしょ?

だから、瞑想は良いのです。金もいらなきゃ、道具も要らず、体ひとつあれば良いわけです。
しかも、何をすれば良いかというと、何もしないでおく、というただそれだけですから。
これを「できない」とする理由はないわけです。

ね?
すばらしいと思いませんか?

シゲ
2012年4月11日12:17

●日記はなぜ良いのか。

瞑想が「なにもしない方法」だから良い。
という話とセットになるのが、日記の話なので、ついでにそれも書いておきます。

瞑想は、すごく良いものなんですが、でも、これも実は続けるのはなかなかコツが要ります。
となると、「なにもしない事」すら、できなかった自分、というのが出てくるわけです。

何も行動を起こしてないから、失敗もない。だから成長もしてない。だったら、何もしないでおこうと瞑想をやってみたけど、それも続かない。

「じゃあ、死んだら?」と、そういう人には私は言うし、そういう人が死ぬのを止める権利までは私にはない。「自分を生きる」という、「生まれてきた意味」を求めないのなら、それは死ぬしかないでしょう。死になさい。

死ぬのが嫌なら、ちゃんと生きろっちゅう話でして、そのためには自分で自分の面倒を見ないといけないし、そのためには「自分を好き」になるしか他に道はないわけです。

で、自分を好きになるために、瞑想という「なにもしない方法」が三日坊主で続かないとしたら? そういう人は、

●何か、どうでもいいことを、日々やっている。

ということになるわけです。
でしょ?

何かわけのわからん事をやってるんです。
何やってるの俺?? っちゅうことです。

ここで、「日記」が役に立つということです。

「なにもしない瞑想」もしなかったということは、絶対何か他の事をしてる、ということです。
だから、それが何か? を発見するために日記を書けば良いのです。

それ、ほんまにやりたい事か?
それ、ほんまに好きか?
それ、自分の人生を削ってまで、実行する意味のあることか?

ということですね。

日記はそれがわかる。
だから良いのです。

シゲ
2012年4月11日12:40

●日記の書き方。

日記と瞑想が何故良いのか?
という話は書きました。
なんでセットで言うてるのかも、これで説明になったでしょう。

だから、きゃおるさんの周りでも「こんな私を好きになれと言っても無理だわ」とかボケなすな事を言ってる人がいたら、この二つを上記の理由とセットで勧めてください。

ただ、日記をつけるに際しては注意点があって、それは、
「こんな私がいけないのよ。」というような、自己否定を強化するような事を書いてはいけない、という事です。

そんな事を書いたら、「生きながら、生きるのを不満だと言う、生ける屍。」状態を、より強固にするだけなんですね。

だから、大事なことは、人生という限りある、貴重な時間を、自分がいったい何に使い込んでしまっているのかを「観察」するために、

●事実だけを書く

というスタンスを守る、ということです。
「気持ち」とか、「自分の考え」とかは、まぁ書いてもいいですけど、最優先項目ではないです。ただひたすら、「自分が何に時間を使ったか」だけを記録する。そういうスタンスで日記を書くのです。

もっともカンタンなやり方としては、

●一日5個だけ、「やった事」を列挙する。

というやり方でしょう。
書くのは5行だけ。
そう制限しても良いくらいです。
「気持ち」とか「自分の考え」とかを書きたかったら、別に日記帳を用意するとかでも良いくらいです。

とにかくひたすら

●事実だけを書く。

これです。

日記は形として残るので、後で読み返す事もできるんですが、
事実しか書いてないと、読み返す時も、「あとで読んで恥ずかしい」というのがない。
それがまた重要なんです。

良いも悪いも一切なし。ただ「やった事」だけを残しておく。
それが良いのです。うつ病とかにも効果あるしね、これ。

で、そうすると、これが、自然に、勝手に、知らず知らずのうちに、自動的に、何も考えなくても、

●私は私が大好きだ。

という事になっていくんですよ。

●自動的に、

です。
マジに。
多分、例外無しに、です。

そこが日記の良いところです。
自動的に自己肯定感が生まれる。
ただ、書くだけ。

誰にでもできる。すばらしい。

ま、ノートと筆記具は必要ですけどな。
(手書きでないと効果は薄い。デジタルはあきませんなぁ、なぜか。ま、人にもよるでしょうが。基本は手書きです。)

●事実だけを、手書きで書く。

ようはこれですね。
自分を好きになる方法はこれ。
確実かつ、もっとも効果的だろうと、僕は思います。

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